ありし日の士幌線


士幌線
JTB発行『廃線跡懐想』より

 そびえる山脈を貫く。それは鉄道技術者だけではなく、平野の少ない日本に住む者にとっての夢だったと思う。素晴らしい平原を持つ十勝平野も、現実は三方を山に囲まれる閉ざされた大地だった。ここに明治38年、狩勝峠を越えて根室本線が開通し、やがて池北線、広尾線と各方向に出口を求めてレールがのびていった。そのなか、一本の鉄道が東大雪の山塊にまっしぐらに向かっていった。士幌線だった。
 大正11年の改正鉄道敷設法には、「十勝国上士幌線ヨリ石狩国ルベシベ(上川)に至ル鉄道」とある。標高1450mの大難所、三国峠を越えようと目論んだのである。しかしその夢は時代によって砕かれる。昭和62年、士幌線は消滅した。その跡に多くの美しいアーチ橋を残して。

士幌線地図
士幌線地図 拡大版(321KB)


士幌線のあらまし


 国鉄士幌線は、帯広駅から上士幌町十勝三股駅まで、延長78.3キロ。大正15年7月10日に帯広─上士幌間38.4キロが開通、その後昭和14年11月18日に上士幌─十勝三股間39.9キロを開業して、全線が開通した。

 北海道の鉄道敷設は、明治29年に公布された「北海道鉄道敷設法」によって現在の根室本線」、宗谷本線、函館本線などが建設予定となり、明治から大正時代かけて次々と完成していった。士幌線は当初この敷設計画に入っていなかったが、明治43年から実施された北海道「第一期拓殖計画」の遅れを取りもどすべく大正5年、現石北本線の一部など四線とともに、「上士幌線」(帯広ー上士幌間、37.3キロ)として追加線に組み入れられた。

 その当時の河東郡は音更村1村で人口約1万人。木野、音更、中士幌、鹿追地区に開拓者が点在していたが、奥地は未開のままであった。
 音更村は大正10年、鹿追村と川上村(旧士幌村)を分村するが、この年の8月十勝平野北部開拓の使命をおびて、追加線となった上士幌線の実測が開始された。翌11年には、帯広から建設に着手工事は順調に進んで14年12月10日、帯広─士幌間30.1キロを開業した。残る士幌─上士幌間もひき続き15年に完成、7月10日に開通した。

 測量に着手した大正10年の音更、川上両村の戸数は2,546戸であったが、士幌までの開業によって入植者が急速に増え、全線開通時には音更村1,732戸、士幌村(大正15年6月村名改称)1,200戸の合計2,932戸に増加、人口は両村合わせて17,750人となっていた。北十勝の開拓を著しく進めた士幌線はその後、石狩山地を縦断、上士幌と上川を結ぶ鉄道の一部として、昭和9年から十勝三股へ向け延長工事を開始。14年11月8日、37.6キロを新たに開業して、全線76.0キロが完成した。

 北部十勝の開拓と、石狩山地南部一帯の森林資源開発を目的とした二度にわたる鉄道の開通で、奥地への入植者がふえ、農業と相まって林業が盛んになった。士幌村の人口は昭和5年11,863人を数え、その半数近くは上士幌地区にあって、翌6年4月、上士幌村を誕生させた。清水谷、糠平、十勝三股と延びた鉄道は、当時音更川の流送に頼っていた原木輸送を貨車輸送にかえ、勢多水銀鉱山を出現させた。また一本の道路もない三股は、樹海を切り開いた2本のレールによって街と結ばれ、、道内屈指の木材生産地として発展してゆく。

音更川の流送
[ 音更川の流送 ]

 昭和27年北海道総合計画の一環として、糠平ダム建設が開始され、31年6月に完成。これにともなって清水谷−幌加間のルートが変更され、旧糠平駅は湖底に沈み新駅が登場した。


旧糠平駅 旧糠平駅 旧糠平駅
[ 旧糠平駅 ]

 旧糠平駅は、鋭角の屋根にコンクリートの煙突を二本つき出したモダンな駅舎であった。 夏になると数百羽の岩ツバメが飛来して軒端に巣をつくり、「ツバクロの宿」とも呼ばれる旅情をかもしだしていたが、ダムの完成によって惜しまれながら消えていった。


 糠平ダムが完成する前の30年に士幌線にディーゼルカーが走り、31年には客貨分離が実施された。糠平湖は新しい観光地として脚光を浴び、乗車客は一層増加したが、国鉄の経営合理化によって35年には木野、萩ヶ丘駅が委託駅となり、10年後には駒場駅など5駅が無人化された。さらに木材需要の低迷などによって三股の造材も縮小され、53年暮れには糠平−十勝三股間が全国初のバス代行輸送となった。三度にわたる貨車暴走という痛ましい事故もあったが、開通以来63年間にわたって地域開発に貢献してきた士幌線は、国鉄の分割、民営化に伴って63年3月22日をもって廃止された。

『北の鉄路−士幌線の63年』より   
編集 帯広市・音更町・士幌町・上士幌町

地図





必見!昭和18年頃の士幌線のお話

昭和18年頃の沿線

士幌線の沿革=開通及び開業
木 野〜士 幌間大正14年12月10日
士 幌〜上士幌間大正15年 7月10日
上士幌〜清水谷間昭和10年11月26日
清水谷〜糠 平間昭和12年 9月26日
糠 平〜十勝三股間昭和14年11月18日

清水谷〜糠平間の景観

仙翠峡現在、元小屋ダムのための水位上昇により、両側の岩壁の高さがなく残念な眺めであるが
往年は岩壁が高く、その岩壁を跨いで15m程の赤く塗られた鉄のアーチ橋が架けられていた、
汽車の窓から下を覗き見ると素晴らしい景観であった。
仙翠峡
糠平大函柱状節理の岩壁で岩肌に、春はツツジ・夏はシャクナゲ・秋は紅葉と壁画の様であった。
現況は川の流れがないため、潅木の生えるにまかせて其の陰も見る事ができず残念に思う。
関係機関において何とか善処され再度あの景観を再現されるのを希待したい。
 又、此上手の部分、全体の1/3程が電源開発の岩崩れによって破壊崩落し、自然環境破壊の標本展示に見えてならない。
糠平大函
鱒見の滝現在、鱒見トンネルの位置に巾4m落差3m程の、水量が多く水シブキが綺麗な滝があった。
鱒見の滝何の変哲もない滝だったが、現今では考えられない逸話があったのです。
当時は千代田堰堤とか砂防ダムなど、魚の俎上を妨げるものがなく、鱒やシャケが此の滝まで上がって来たのです。
その魚を川岸からみることが出来たので「鱒見の滝」と言われ、鱒見トンネルもその名からとったものと思われる。
「鱒見の滝で大漁」当時このあたりには造材や台車積みの人夫等の飯場が存在し、夕食の魚に滝へ総出で漁に出掛け、
滝壷にダイナマイトを投げ込み白い腹を上に浮き上がった鱒やウグイを川下で網をかけて捕獲、
今で言うレクリェションを兼ねた食料調達であったと思われる。
糠平駅駅舎は温泉所在地のせいか、鉄道規制駅舎と変わったモダンな建築様式であったように記憶している。
駅前には音更川が流れ、下手で糠平川と合流しそのあたりに温泉行きの橋が架かっていたいたように思う。
構内には機関車の車庫と給水塔があり、営林署の岐線があった。
建造物は、鉄道官舎と日通事務所と飯場等であった。
糠平駅
糠平温泉大正8年に湯元館の初代経営者 島 隆美氏が発見したのが温泉の始まり。
昭和9年頃には15軒の湯治場があったと記憶にあるが、道路も鉄道もない密林をどの様な手段で往来したものか興味のあるところ。
18年頃は糠平駅から4キロ程の馬車道のような砂利道が存在していた。
鉄道も開通した事で結構賑わっていた、数回入浴に行った記憶がある。
糠平温泉
幌加駅へ糠平駅を発車して暫く進むと車窓の視界が明るくなる、密林が開け白樺の小木が散在する草原が続く。
このあたりは高原の湿原地帯であったのか?
このあたりから西方にウペペサンケ山が望見出来た。この草原を過ぎると、間も無くタウシュベツ橋に至るが、
車窓からは巨木しか見えず現在の様にニペソツ岳を望むことはできなかった。
士幌線唯一のトンネルを過ぎると幌加駅である。
タウシュベツ川橋梁
幌加駅この駅は上り下り線一本で駅舎と官舎のみで、駅員も2名勤務であった。
乗り降りの客もほとんど無く寂しい状態であった。時々山から親父が慰問に来た話があった。
鉄道の施設には、多額の費用と期間を要する為、開発が何時も先行し鉄道が開通した時点では
不要の長物となる事が多い。白糠線・根北線・然り開発資源の枯渇で必要性を失うのである。
幌加駅も其の典型的な駅であったと思う。
 上士幌以北の鉄道は昭和10年から14年にかけてようやく十勝三股に至ったが幌加以南の資源(木材)は
既に音更川の流送で上士幌の貯木場まで輸送されていたのであった(10〜13年頃が最盛期)。
しかし、戦後になって軍優先から解放されて自由経済になり、一般材の輸送が自由になり幌加駅からの木材搬出が
行われ、木工場等も出来、電源開発の機材、洞爺丸台風による倒木材の輸送で多忙を期したが、
昭和45年9月業務解散のため無人駅となり終幕を引くことになった。
幌加駅
余談幌加駅の意外な存在意義があったようです。鉄路も山間部に入ってからは平均上り勾配が25/1000mの上り坂のため、
機関車にとっては難所の連続、乗務員は石炭を連続投炭を続けて蒸気圧を保持しなければなりません。
真っ黒な黒煙を吹き上げて驀進する勇姿は、見た目は素晴らしく感動しますが乗務員は大変なのです。
特にトンネル通過の際に黒煙をはきながら突入すると大変な事になり兼ねません。蒸気熱と排煙ガスで危険な事もあるのです。
トンネルの手前あたりで黒煙が薄れるように相当手前で投炭をやめ、残存蒸気で進行を続けながらトンネルを通過し終わる頃には蒸気圧も減り、再び投炭し蒸気圧の上昇にかかる時、幌加駅に到着。
動輪はお休みですから、窯の蒸気はみるみる上昇し次駅へ向かって発車です。
坂を登る汽車
幌加温泉昭和3年頃から湯小屋が開かれたのが始まりと言われています。
昭和18年頃は営林署の休養所があると聞いていました。道路も無く現地の様子は知りません。
戦後、昭和26年幌加温泉・48年湯元鹿の谷が開業、現在に至っているようです。
幌加温泉
十勝三股駅駅名の起源 音更川・中の川・十四の沢の川の合流点なので三股となる。
三股であるが他に同名の駅があったので、十勝を加え十勝三股とした。
当時、駅員は12名・保線員が7名勤務し、構内も3番線と貨物線及び転車台線があった。
又、一番線の延長で200m?程の営林署の木材専岐線が2本敷設されていた。
駅勢圏は未開の密林地帯で、石狩山系の奥沢に向かって木材の切り出しが盛んに行われていた。
管行直括事業で下請けの組が入山しており、出稼ぎ人・人馬共稼ぎ等が組別に入山・飯場を作り集団作業を行っていた。
当時、列車は4往復運転していたが、乗客も各列車30人前後の乗り降りがあった。
 伐採した丸太は「バチ橇」で搬出されて来たが、岐線の土場に10m程に丸太で組まれたサンドル上に曳き上げて荷卸しするのだが、直径1mもある長尺丸太が4・5本積んであり、ガッチャを切ると同時に転げ落ちる、
「ドドーン・・・」とスゴイ音がする。300mも離れている駅舎にも地鳴りして聞こえて来たものだ。
又、毎日貨車に積み込みの掛け声(キヤリ)の音頭が林間にコダマして叙情的であった。声の素晴らしい先導者がいた。
 当駅はこの木材輸送が最大の使命で、発送していたのです。
今は言えるが、すべてが軍需用材、民需で製紙工場のパルプ材1日16トンのみであった。
貨物係を担当して、行き先表・発送通知書・輸送報告等事務処理の他、岐線での貨車番の照合、
日通作業員の督励等あげたが、本来一番苦労する使用貨車の手配がほとんど無かったことである。
何故か? 当時国内は軍隊が最優先の時代、鉄道輸送も軍需輸送が優先され、各所に輸送指令部を置き、
指示命令が発せられていたのです。十勝・帯広にも7師団が駐屯してた。
帯広駅にも駅長室に輸送指令部を置き、将校・下士官が常駐し駅長に指示指令をしていたのです。
十勝三股からの木材輸送に必要な貨車の手配等、指示通り管内から集め士幌線の列車に連結して三股に空車で届く仕組みであった。
三股駅へは原木の量と送り先の指示・運賃後払い書が届く。
又、月に1・2度、指令官(中尉)が軍刀と杖に皮長靴を履き客車から降立つことがあった。
駅長始め駅員総員が直立敬礼を以って迎えたものであった。現代では漫画的状景でしょう。
十勝三股
周辺の状況駅構内の周辺は、赤エゾ松・黒エゾ松・トド松等の密林でまったく見通せる物がなかった。
周りの建物は、鉄道官舎・営林署庁舎・日通事務所及び飯場だけであった。
電灯も無くランプ生活、燃料は薪ストーブ、厳冬期等零下30度のシバレが普通、密林に囲まれていたので常に無風で、
松の高枝に積もった雪が飛ぶのを見て風を知る程度であった。
18年から19年にかけて、東高台に営林署官舎が10棟程建ち、青山木工場と社宅ができる。
住居人が増えてきたので、糠平小学校の三股分校が開設される。
この頃、三股神社が設置され、上士幌から神官を呼んで鎮座祭りが行われていた。
このあたりの開発で樹木を伐採したので視界が開け、オッパイ山が見えるようになった。
青山木工場の火力発電を鉄道も供給を受け、夕暮れから22時まで文明生活が出来るようになる。
十勝三股駅
後書き弱年17才18才の2年間の経験を、今思い起こすにはへだだりが感じられる。
だが、この弱年で独立し生活を通した気力、今にして自分ながら感じ入るものがある。
この2年間結構楽しい事も沢山あったが、戦時真っ盛り上司の弟がアッツ島で玉砕という悲しい思い、
我が身も先は同じかと戦慄を覚えた物であった。
 20年2月鉄道員も召集されて男子が少なくなり女子職員が多くなり、女子で出来ない仕事もあり、
戦時要員確保という名目で、釧路駅に転勤し外勤(貨車の入換操車)に勤務しました。
終戦間近の7月釧路空襲に遭遇し無事であったが惨憺たる思いをしたものであった。
戦後の食糧難、澱粉粕だんごの味も忘れられない。
十勝三股駅
このあたりで現在に戻り、77歳の老人が語る思いで戯言の締め括りとします。
元国鉄職員  帯広市  n.moriyama


  昔、士幌線に居た
どうぶつ たち

元機関士の思い出 
 

 元士幌線を乗務した一機関士が体験した昔の思い出ですが、過疎化した沿線ではもう乗車経験された方も少ないでしょうし、廃線になってタウシュベツ川の沈む橋だけが有名になり、殺風景になった元士幌線跡では考えられない動物達との体験談です。
 下手な文章で、半世紀程前の古い事象ですから、判然としない部分もあろうかと思いますが、到底想像もつかない現状と比較し勘案しご寛容下さい。



  ブッポウソウ

 私が機関助士になった昭和15年(1940年)8月に、初めて士幌線の終列車に乗務して、鬱蒼とした森林の中にある駅や車庫(現在の糠平湖の最深湖底)から出て、糠平駅に隣接した日通関連の一部屋に宿泊したのですが、電燈は無く、機関車点検用の電池ランプを枕元に置き、慣れない寝具で眠れないままウトウトしていると、「ブッポウ」と鳥の鳴き声のようなものが聞こえたのです。
 更に耳を澄ますと確かに「ブッポウ」と聞こえるけど「ソウ」が聞こえないのです。初めて聞く鳴き声であり、仏法僧なら「ソウ」と鳴くのでないかと自分なりの知識で期待したものの何時しか眠ってしまいました。
 翌朝機関士に尋ねても知らないとのことで、帰宅後「大辞泉」を調べると、ブッポウソウ科の鳥で夏は南方から渡り、鳩大で青色の羽で俗にコノハズクを声のブッポウソウと言う。とあったのですが、再び聞くことは有りませんでしたし、糠平に居るとは意外で印象的でした。


  うぐいす

 士幌線の終着駅は十勝三股駅で、76キロメートルの殆どが登り勾配で、機関助士は休む暇も無く火室に石炭を投入し、夏は背中も汗でびっしょりで、機関車を転車台で方向転換した時に、下手の森林の方から鶯の鳴き声と、谷渡りの声も聞こえたのですが、勿論聞くのは初めてでも判るので額の汗を拭きながら、疲れも忘れて聞いたものでした。
 線路の駅裏はえぞ松の森林地帯で、顔を彼方に向けると残雪深い天狗山とかユニ石狩岳や三国山の裏大雪連峰が、青空にくっきりと美しく目に映えるのでした。


  多くの輓馬が丸太を挽いて土場へ

 原生林から切り出された原木は、冬になると特殊の橇に乗せた輓馬が駅の土場に向かって集まり、貨車に積み易いように貨車より高く山の様に土場に積み上げて、貨車に向かって転げ落とすとそのまま発送出来る状態になるので、糠平、幌加、十勝三股の各駅の線路脇土場は原木の山が築かれ、馬の鼻息が白く吐き出され、気合いを掛ける馬主の声が入り乱れる賑わいで、あの様な風景はもう見られませんが、貨車の多くは苫小牧の製紙工場へ行くようでした。
 上士幌は音更川の上流から流送された原木を陸揚げし、駅の土場まで輓馬で運んで積み込み用の土場に築き上げて貨車積みしていました。


  線路上を逃げる親子馬

 ある時上り気動車列車で清水谷駅に向かって走行中、カーブから直線になると放牧されていた親子馬が線路上を並んで走って逃げる姿が見えたのです。此処は緩い上り勾配で、線路の両側は切り取り斜面ですから線路上しか逃げ道が無く数百メートル先に踏み切りがあり、駅まで近いので徐行しながら追えば、なんとか逃げ切るものと判断して追ったのです。
 子馬はレール間、母馬は付き添うように側の路盤上を合わせて走るのですが、汽笛で驚かさない様に注意して低速で追い、無事に踏み切りで道路上に逃げ切った時はやれやれでした。


  食べられ襟巻きになった狐

 十勝三股の小学生は、上士幌の学校へ汽車通学していましたが、終列車の客車は三股駅ホームに留置して、機関車は車庫のある糠平に帰り、翌早朝機関車だけで戻って客車を挽いて上士幌駅まで往復して十勝三股に戻り、帯広行きの列車を編成したのです。
 ある時上士幌駅の転車台修理の為に、下り勾配となる上士幌方は機関車を逆向きで走ることになったのですが、C56型機関車でも炭水車が前頭では見透しが悪いし、体を後ろ向きにひねる不利な姿勢で注意運転していました。
 幌加、糠平間で、運転席反対の進行左側線路上に小さな狐色した物がみえたものの瞬間であり支障無く通過したが、見慣れない物であり気になりました。
 上士幌駅から折り返してその場所近くに来ると、機関助士を見易い前側から注視するように指示して其の場所を通過したのですが、何も見当たらなかったので以後忘れていました。
 後日機関車庫内の職員から、「先日、保線区員が幌加方面に巡回して線路上から狐の死体を拾い、それを職員間で肉鍋で食べ、皮は疵が少ないので職員の奥様の襟巻きに加工したとさ」と聞いて、私達が暗い夜か、早朝に轢いたらしいあの狐だったのでした。


  雪原から線路内に飛び込んだ野兎

 冬の畑地は一面の雪原で、跳ね回っていた野兎が除雪された線路に入って列車の進来に気付いて逃げるのですが、進行方向で緩い上り勾配で低速ながらも徐々に機関車が接近すると、危ないしどうするかと注視していると、寸前で50センチ位の雪壁に向かって飛び跳ね、線路外に出ると一目散に雪原上を走って逃げるのを見届けて一安心したものでした。


  鹿

 蒸気機関車で運転している時は、大きな振動の故か鹿を見たことはないのですが、気動車(DC)は軽く静かに走る為か、鹿も間近に見る機会が多くなった様です。ある時は1km位前方でゆっくり横断する姿や、築堤の脇下の叢から突然飛び逃げる姿で驚いたり、ある夜間列車の前方でライトに反射する白い動体を見て注視すると、線路上を逃げる鹿の白い臀部で、間もなく横へ逸れて一安心した事もありました。
 ある夜、所用で機関区に顔を出した時に、終列車が幌加を出て間もなく鹿に衝突して遅れているとの情報を聞いたのです。珍しい事であり、様子を聞こうと期待してカメラを持ってホームで待ち、到着した運転士に聞くと、衝突した車両の前部を検査して車両の中間に来ると、三股から乗車した土場の人足達が鹿を鉈(なた)で解体し、それを持って乗車し、糠平駅でその鹿を持って降りるのでそれを制止しようとすると「俺達が居なかったら困ったろ」と言い、鉈をちらつかせながら全部持って下車したそうです。あわよくば鹿肉をと期待したのにガッカリでした。


  線路横断の熊

 三股行きの下り列車で幌加駅を出て間もなく、前方の左から横断する黒っぽい動物が見えたので、この辺には馬が居ない筈だし、不審に思ってその近辺迄行った時、機関車の右側を見ると、築堤下方の草むらの中を同じ方向に走っている熊が見えたのです。珍しい事なので後方の客車にも知らせたいと思うだけで方法が無いので助士とそのまま見ていると、間もなくサッと下方の川原に向かって降りて見えなくなったのです。多分川へ水を飲みに来た熊だったのでしょうが、熊もさぞびっくりしたことでしょう。


  剥製になった(梟)ふくろう

 終列車で三股近くなった時でした、前方左側レール上で動物らしい目玉が二つライトで照らされたので、狐かなと思って接近すると50センチ位の梟の様で、そのままDCの除雪板に衝撃したのです。別に鳴き声も聞こえないし、運転には支障ないのでその儘進行したのですが、三股に到着してから寝室が同じ車掌にその事を話すと、明朝その場所で降りて拾うから徐行してくれと言うのです。
 DC1両で操縦し易いのでOKして翌朝その場所で最徐行し、車掌が飛び降りて簡単に拾い運転室を通って客室に行きました。
 間もなく車掌が来て乗車していた便利屋さんが剥製にして学校に寄贈したいと申し出があったので相談に来ました。文句なしにOKしたので、剥製された梟は三股に出来た小学校にでも飾られたと思いますが、今は学校もありません。
 梟は全身灰褐色の夜行性で、鼠や兎を補食する温帯、寒帯の平地林に住む鳥らしいのです。

元国鉄機関士  帯広市  t.oozeki



第9糠平トンネルの落盤事故
(友の会・会員の調査です)

 第9糠平トンネルの落盤事故で9名の方が亡くなられたと、トンネル入口の説明文にあり、翌年建立された殉職碑が、現在 鉄道資料館横に移設されています。
 疑問が生ずるのは、その殉職碑には14名の名前が刻まれている点です。碑文の台座には「士幌線付替工事従事中其の職に殉じ尊き礎となられた諸氏の功績をたたへ、北の地に一基を建立する」と昭和三十年七月付の説明があり、札幌〔事務所職員〕2名、大林組2名、荒井組8名の名前が刻まれています(〔  〕内は判読しづらく推読部分)。

 帯広市図書館で第9糠平トンネル落盤事故の新聞記事を調べてみましたら、事故は昭和30年3月4日(『十勝毎日新聞』は午後4時頃、『北海道新聞』は午後とのみ記述)に発生し、9名が亡くなられたとあります。内2名は殉職碑にある国鉄札幌事務所職員と一致し、残る7名は荒井建設職員で、この方々も殉職碑の人名と一致します。
 では残る大林組の4名と荒井組の1名は何処で何時、亡くなられたのか?

 更に当時の新聞記事をさぐり、士幌線付替工事に関する事故を調べてみましたところ、昭和29年8月21日付『十勝毎日新聞』の記事に、8月19日午後8時40分頃、第2糠平下口墜道の落盤事故で大林組内田工務店土工夫 T.Sさんという人の死亡記事を発見しました。この人は殉職碑の大林組の4人の内の一人でした。
 このことにより第2・3糠平トンネルの施工を大林組が行っていたことも判明します。しかし、現在の段階では大林組の3名と荒井組の1名については不明です。
 これはあくまでも推測にすぎませんが、大林組が担当していた大沢川橋梁工事でも事故が発生していたかも知れませんし、新線付替工事で作られた大きな橋梁や陸橋、トンネルの受請会社が判明すれば、亡くなられた方々の死亡理由も判明するのではないかと思っています。

 話は少し戻りますが、この第9糠平トンネル落盤事故で亡くなられた荒井建設の7名中3名が朝鮮出身の方々です。糠平ダム西側のダム建設の殉職碑に刻まれた32名の方々は、7割近くが東北・北海道出身者ですが、2名の韓国出身者が記されています。
 32名中4名は新聞記事で特定出来ましたが、当時の工事に携わった労働者の記事には、事故の他にも暴力事件、自殺記事、窃盗事件など、すさんだ内容が多く見受けられました。それは裏を返せば、如何に当時の労働現場が厳しいものであったかを物語っているようです。

第9糠平トンネル落盤事故 殉職碑



ありし日の士幌線
『北の鉄路・士幌線の63年』より
編集 帯広市・音更町・士幌町・上士幌町

  士幌線と動物たち

 初夏の頃は、終点の三股駅に着いてホッと一息入れ、東大雪の山々を眺めながら、さわやかな空気を大きくすっていると、近くの樹海で鳴くウグイスの声が聞こえてきたものです。野生ですから上手ではありませんが、それだけに自然的で、汗をぬぐいながらしばらく聞きほれたものでした。

 乗務先の糠平で宿泊し、布団に横たわって寝ようとすると、真っ暗な樹海の彼方から、「プッポー」と鳴く声が寂しげに聞こえるので、ひょっとしたら『仏法僧』と言われる鳥ではないかと、素人判断で語尾の「ソー」が聞こえないかと耳を澄ましたものですが、そう思える節もあるけど判然とせず、結局わからずにいつしか眠ってしまうのが常でしたよ。

 最終の気動車列車が、あと数キロで三股に着く地点でした。前方の線路上にピカッと光る小動物の二つの目玉があるんですよ。
 狐かなと思って接近すると、ライトに照らされて見えたのは、レール上にとまった『みみずく』か『ふくろう』の姿でした。
 当然すぐに逃げると思ったのに、もさもさしていて、飛び立った時は列車の寸前でしたから、「パン」と軽い音で車体下部にぶつかってしまったのですが、ほんの瞬間の出来事でした。
 翌朝、一番列車で帰る時に現場付近を見ると、かわいそうに線路内に転がっていました。

 そうそう、狐が早朝の暗い時に、糠平、幌加間で機関車に轢かれ、その時には気付かなかったのですが、明るくなったその帰りの列車で、線路内に転がった色と形でそれと分かる死体を発見して、事故?を知ったこともありました。列車から拾うことも出来ず、物不足の時代でしたから、瞬間惜しい気持ちも湧いて通ったものでした。

 後日、その日巡回の保線区員の方が拾い、鼻先が痛んだだけだったので、奥さんの襟巻きに加工したとの話を聞きました。

 冬になると、兎がよく線路に出て、機関車の前を走って逃げるのですが、除雪された線路内が走りやすいので、横へそれないで、真っ直ぐに懸命に走るんですよ。
 上り坂で列車のスピードも遅いのですが、徐々に追い詰められて来るので、早く横へ逃げるようにと、シリンダーの下からシュ、シュと蒸気を吐き出して追うのですが、機関車をからかっているのではないかと思う事さえありました。
 いよいよ危ないと思った瞬間に、さっと横の雪壁を飛び越え、一目散に雪を蹴るように逃げて助かり、当方も共にほっとしたことが何回かありますよ。


貨車暴走三件の記録

 士幌線は起点の帯広駅から終点十勝三股駅へ向け、標高42.5メートルから662メートルへとのぼっていく、その勾配は、最も傾斜の強い黒石平−糠平間の1000分の25を最高に、平均1000分の18.5という斜度を有している。
 士幌線には、その急な傾斜と国鉄の不注意による貨車逸走で、3件の事故が発生するという、不名誉な記録が残されている。
 貨車の暴走は26年と31年、44年にあったが、なかでも31年の事故は、運転中の気動車に衝突。死者5人、負傷者63人を出す未曾有の大惨事となった。


幌加 糠平・清水谷・萩ヶ岡 上士幌
 

30キロを22分で暴走

 最初の貨車逸走は昭和26年9月20日に起きた。

 同日午後4時40分ころ、幌加駅構内の引込み線で丸太を満載した貨車2両をモーターカーで入換え中、カーの制動器が故障して本線に逸走。糠平駅付近でカーは破損、脱離したが、2両の貨車はそのまま暴走した。

 清水谷駅から通報を受けた上士幌駅では、村祭りの当日であったが、近くの人びとの協力を得て、三番線に枕木を置き、丸太ヤグラを組むなどして暴走車両強制停止の措置をとった。糠平・清水谷・萩ヶ岡の駅を通過、30余キロを暴走した貨車は、枕木を乗り越え丸太の砦に激突転覆したが、丸太は30メートルほども飛ばされた。

 運行中の列車がなく、大きな被害の出なかったことが不幸中の幸いであった。 


上士幌   ×   士幌
   

衝突! 死者5、負傷63人

 2度目の逸走は、悲惨な事故となった。

 昭和31年7月3日午前7時14分ごろ、上士幌駅構内から逸走してきた木材満載の貨車が、士幌−上士幌間帯広起点33.2キロの地点で、運転中の気動車と衝突。気動車の乗客85名のうち即死者3・重傷者16・軽傷者49人を出す大惨事が発生した。

 この日上士幌駅では、午前7時を少し回ったころから貨物列車編成のため、貨車移動車で入換え作業を行っていた。移動車にけん引された丸太満載の長物車を、積込み作業を終えた他の長物車に連結しようとした際、そのショックで制動手配が充分でなかった丸太満載の長物車2両が転動、構内斜度1000分の2.5の下り傾斜に乗り、士幌方面に向けて動き出した。駅員はそれに気付いて追いかけたが、貨車は本線に逸走。1000分の10の下り勾配でスピードを増し、朝もやの中に消えて行った。

 士幌駅で貨車逸走の第一報をうけたのは午前7時9分で、帯広発午前6時18分十勝三股行きの気動車、下り711列車(1両)が堤時刻の7時7分に士幌駅を発車してから、2分後のことであった。
 士幌駅では気動車の乗務員に緊急事態発生の連絡をとる手段はなかったが、上士幌駅まではほとんど直線で見通しがよいので、運転中の気動車が暴走貨車を発見して、後退してくることにわずかの望みをつなぎ、とりあえず気動車を一番線に導入、二番線で貨車を脱線停止させる手配と処置を施した。

 一方運転士、車掌、乗客85人を乗せた下り711列車が士幌駅を発車してから3キロ余り運転したとき、突然朝もやをついて野牛のように突進してくる暴走貨車を運転士が発見した。貨車との距離は300メートル。気動車を逆行させる暇がないとみた運転士は急停止して車掌と協力、乗客を下車避難させる措置をとったが、次の瞬間ものすごい音をたてて正面衝突。暴走貨車は気動車の前面にめり込んで、互いに脱線、そのまま200メートルほど引きずられて停止したが、このときの衝撃で貨車に積んでいた丸太が飛散、落下した丸太の下敷きになって死亡者5人、重軽傷者63人を出した。


士幌   中士幌
 

重油を積んで暴走

 ことわざに「二度あることは三度ある」というのがあるが、そのことわざを地で行くかのようにまたも貨車逸走の事故が士幌線で発生した。

 すなわち3回目の事故は、昭和44年11月28日午後5時ごろ、士幌駅構内で入換え作業中、貨車5両をすでに留置していた貨車7両に連結しようとして失敗、そのショックで7両の貨車は中士幌駅に向けて走り出した。
 士幌駅から緊急通報を受理した中士幌駅では、逸走してくる貨車を構内の側線に引き入れ、留置中の貨車12両に衝突させて停止させる非常措置を講じた。もちろん留置貨車の手前には脱線器を設置し、枕木の障害物も置いた。

 しかし作業半ばの5時25分ごろ、士幌から中士幌までの8キロに及ぶ下り勾配で加速した逸走貨車は、時速60キロを超すと思われる暴走車両に変身。あたかも手負いになった猪のようにうなりを生じ、全身をゆさぶって枕木を跳散らし、脱線器を壊して留置車両に衝突した。

 この衝撃で暴走貨車は全車両が脱線、暴走車の前2両のタンク車と肥料を積んだ有蓋車、ぶつけられた留置貨車12両のうち2両が転ぷく、合計5両の貨車が大破した。

 現場では破損したタンク車からボイラー用の重油が飛び散り、さらに流れ出して付近の積雪を真っ黒に染め、肥料の散乱もあって一時は火災の誘発も懸念されたが、二次災害などの大事には至らなかったので、関係者は一様に胸をなでおろした。



少年の日の思い出
S・A

 話は約40年前の初冬。帯広から北へ進む国鉄(今はJRという)の線路は、糠平温泉から山中に入り十勝三股駅が終点。このマチは木材の集散地らしく木工場や旅館、商店などで賑わいがあった。そのマチから丸太を運搬するトロッコにフトンとバックを積みこんで、寒風に首を縮めながら約1時間。大雪山系から流れ下る清流の側にその飯場(今は作業員宿舎とかいう)があった。ここが冬山造材の最前線。
 そこに起居する約30人の人夫(労務者)の仕事は、材木の伐採、馬での運搬、土場で野積み、道路つけなど。飯場は掘立小屋で、柱と梁(はり)は頑丈そうだが屋根は柾葺で穴があいており、雪や雨の日は大変。壁は厚さ1センチの板1枚。マイナス30度を超える寒気は容赦なく吹き込む。寝るときは帽子も靴下も離せない。戸外にある五右衛門風呂で温めた体温も直ぐ冷めてしまう。そういう環境での生活は、頑健な身体が第一で、病気になっても医者はいない。要領の悪いヤツは、実のなくなった味噌汁を飲むことになる。落伍すればヤマを降りるしかない。不安と緊張の中で、一人ひとりが懸命に生きていた。

 人間の記憶にもいろいろあるようだ。大きな経験でも「忘却の彼方」へ直行するし、数十年経っても細かい情景が鮮明に残っている。異常な体験もある。飯場にはいろんな人たちがいた。
 小柄でヒゲの濃いオジサン−酔って若者とケンカになった。柄が2メートル、刃渡り30センチの鎌を音を立てて振りまわした。片腕を失くする覚悟がなければ、誰も止めには入れない。半裸になった若者があぐらをかいて「やってみろ」の度胸にはオジサンも立ちすくんだ。もし「やっていたら」若者の首は簡単に胴から離れていただろう。
 馬追いのオジサン−読み書きができず、家族への手紙を代筆してもらっていた。酒とバクチの借金で立派な雄馬を売りとばした。馬の働きで生計を立てていたオジサンは、肩をおとしてヤマを降りた。
 気味悪い変態の流れ者−薄暗いランプの下で腰までたらした髪の毛を裸の身体にまきつけ、カミソリで肩から手首へ、胸から腹へと切りつける。何本かの傷口に点々と浮かぶ血が一筋の線となり、徐々に流れ落ちる。病的なうつろな眼。猟奇の世界だ。眼をこらす荒くれ男たちの息遣いも聞こえない。
 歯の抜けた腰の曲がったオジイサン−あちこちの飯場を流れ、雑用にありつき小遣いを稼ぎ郷里に残した老妻の仕送りに汗を流す。野鳥のカケスを獲って喰い、安あがりの栄養をとっていた。滅多に風呂に入らない。
 六法全書をめくっていた20歳−自称学生とかで、手紙の代筆のお礼に甘い羊羹をもらっていた。毎晩飲む焼酎代で学資も貯らず、そのうち栄養失調とアルコールで体調をくずし、残っていた汽車賃を懐に東京へ行くと言って消えた。

 新聞もラヂオもない、社会から隔絶された所で、酒乱の男も、自衛隊をクビになった男も、みんな黙々と働いていた。他人の事には興味がない。2キロ上流の飯場で起きた傷害致死事件にも関心がない。
 数年前、終点のマチを訪れ、記憶につながるものを探したが、鉄道も廃止されそのマチは跡かたもない。茫漠たる原野だけ。見事としか言いようのない、それは過疎の現実だった。そこには、昔も今も、舌先三寸で飯を食っているヤツはいない。



現役時代の士幌線





音更の田園地帯を行く  列車は キハ40型




新雪を踏みわけて  列車は キハ40型




夏の1日5両編成が珍しい  列車は キハ40型




坊主山を背景に走る  列車は キハ40型




中士幌付近 (標高146m)  列車は キハ40型




士幌駅 (帯広より30.1km、標高202m)  列車は キハ40型




北平和駅 (帯広より34.4km、標高238m)  列車は キハ40型




上士幌の豆畑を行く  列車は キハ40型


列車は
キハ12型

上士幌駅 (帯広より38.4km、標高273m)




清水谷付近を行く  列車は キハ40型



清水谷駅 (帯広より48.8km、標高376m)





黒石平駅 (帯広より53.6km、標高416m)



電力所前駅

 列車は キハ40型

第三音更川橋梁 (帯広より53.8km、標高417m) 機関車は 9600型




下の沢陸梁 (帯広より56.2km) 機関車は 9600型

■ 列車の車内放送

<黒石平発車後>

 皆様およそ10分で大雪山国立公園の温泉郷糠平にまいります。ただ今から途中の発電所、ダム、人造湖および温泉について概略をご説明いたします。

 右手に見えるのが糠平発電所でございます。この出現は、北海道開発の一環として昭和28年7月の着工で、大雪山の麓から流れる音更川をせき止める工事が始まり、昭和31年9月、約3年余の歳月をへて完成しております。その後も発電所が完成して、北海道電力需要の30%にあたる13万7千キロワットを供給する電源元となっております。

 この発電所の上に2本見える導水管は、直径2.8メートルで、ジープが中を通れる太さです。発電機は2万3千キロワット2基を備えつけ、毎時電力1万2千キロワット、最大出力4万2千キロワットが発電されております。

 また付近の山々が赤裸になっておりますが、これは建設当時、岩石を機械で砕いて砂利の代用としてダムに使用したためです。


糠平発電所

糠平発電所

第二音更川陸橋

第二音更川陸橋 (帯広より56.0km)
機関車は 9600型


第四音更川橋梁

第四音更川橋梁 (帯広より56.4km)
機関車は 9600型


機関車は 9600型 機関車は 9600型  
不二川橋梁 (帯広より59.2km、標高525m)


9600形式テンダ蒸気機関車
9600形式テンダ蒸気機関車


機関車全長  16,563mm

シリンダ直径X行程  508mm×610mm

使用蒸気圧  13.0kg/cm2

機関車重量  運転整備  60.35t
          空   車  54.83t

テンダ重量  運転整備  34.50t
         空   車  15.50t

動輪直径  1,250mm

最大馬力  870馬力

輪軸配置  1−D−0

 この形式は大正時代の代表的な貨物機関車で十分な火床面積を得るため動輪上に火室を置いたのが特長で、このためボイラ中心線は非常に高いが引張力は強大で、大正12年(1923年) D50形式が出現するまで貨物列車用や勾配線用の標準形として毎年製造され、その両数は784両にもなりました。

 士幌線で使われた蒸気機関車は、9600型のほか「C56型」「8620型」などがあります。
「C56型」は、簡易線の客貨両用機として活躍したテンダ機で、昭和十年から百六十両が新製されました。
 8620型蒸気機関車は、大正時代の代表的な旅客用機で、けん引力を落とさずに軽量化。長距離運転が可能なようにテンダ容量も大きく設計して、大正三年から製造されました。
 9600型の貨物機に対して、8620型は大正時代を代表する旅客用機関車です。
十七年間に六百八十七両が新製されました。



■ 列車の車内放送

<ダムの見え始めたころ>

 右前方をご覧ください。雄大な糠平ダムが望めます。このダムの堤体の大きさは長さ293メートル、高さ76メートル、幅6メートルあり、大型バスが楽にすれ違いできます。

 この電源開発は総工費約200億円と、幾多の尊い人命をささげて完成しております。線路も黒石平付近で切替え、大小10ヵ所のトンネルを掘って開通したもので、そのうち第二トンネルが最長で800メートルもあります。

 なお毎年7月20日から、ダム付近で臨時乗車場を設け、一部の気動車を臨時停車させています。そこから見晴台まで約10分、ダムサイトまで約6分で行くことができます。どうぞご利用ください。ダムサイトより糠平行きバスの便があります。


糠平ダム

糠平ダム



不二川橋梁  列車は キハ40型



糠平駅
糠平駅  列車は キハ12型

■ 列車の車内放送  

<第五トンネルを出ると>

 皆さん右側をご覧ください。貯水量15万7千立方メートルを充たす糠平人造湖です。この湖の周囲は33キロ、約8里。満水時の深さは70メートルあります。湖水には毎年ニジマスを放流しており、今では釣愛好者に親しまれております。

 この湖は冬にはスケートリンクとなり、氷の質が非常によいので全国有名選手の合宿地にも使用されております。春のツツジ、秋の紅葉、ナキウサギなどもおり、まことに天下の絶景といわれております。

 また温泉は食塩泉で、神経痛などにききめがあるといわれております。
 旅館は11軒で、最高1千名を収容することができます。

 まもなく糠平へまいります。ホームは右側です。お降りの方は早めにお支度ください。

糠平湖

糠平湖



 

糠平駅 (帯広より59.7km、標高531m)




三の沢橋梁 (帯広より62.3km、標高532m) 機関車は 9600型





機関車は 9600型

機関車は 9600型 機関車は 9600型
第四音更川橋梁 (帯広より67.3km、標高531m)




音更トンネル (帯広より70.3km、標高572m) 機関車は 9600型




幌加の白樺林を行く

■ 列車の車内放送

<幌加>

 次は幌加でございます。

 幌加は木材を積みだす小駅でありますが、神経痛にきく温泉とニペソツの登山口があることで一部の方々に知られております。温泉は1軒ですが駅より約5キロでございまして、旅館よりさしまわしの車がまいっております。

 またニペソツ岳は駅より18キロで、標高2012メートル。中腹より頂上に至るまで各種の高山植物が繁茂し、自然の美しさは他に類が少ないといわれております。登山は5月ころより10月ころまでが適当とされています。それ以外の月は積雪のため危険な山でございます。


ニペソツ岳

ニペソツ岳






幌加駅 (帯広より71.3km、標高583m)



機関車は 9600型




機関車は 9600型




第五音更川橋梁 (帯広より71.8km、標高583m) 機関車は 9600型


十三の沢橋梁 (帯広より76.0km、標高634m)




十四の沢橋梁 (帯広より77.7km) 機関車は 9600型

■ 列車の車内放送

<十勝三股>

 まもなく終着駅十勝三股にまいります。お忘れものをなさらぬようご用意願います。

 十勝三股は海抜660メートル余の高原にある駅でございまして、もっぱら大雪山の密林より切り出される、営林局直営の木材積出し駅になっております。1日200トンを発送しておりまして、行先きは苫小牧王子製紙で、紙の原料となっております。

 近くの山々はアルピニストに絶賛されておりますもので、駅より12キロないし15キロの所にあり、いずれも1700メートルより1900メートルの高さであります。北海道の自然美をもっているといわれております。

 山はユニ石狩、音更山、石狩岳、天狗山、ニペソツ、西クマネシリ、ビリベツ岳、ウペペサンケなどがございます。登山者は6、7、8月ころが一番多いようです。


西クマネシリ岳、ビリベツ岳

西クマネシリ岳、ビリベツ岳

 







十勝三股駅 (帯広より78.3km、標高661m)



音更森林鉄道

 音更森林鉄道は十勝三股駅に接続して設置された三股貯木場を起点として、音更川左岸沿いに敷設され、岩間温泉付近の21線沢までの8775mの森林鉄道であった。昭和26年に運行を開始、昭和32年にわずか8年で消滅した。
レールは10kgレール、軌間は762oで一般に「軽便鉄道」と呼ばれるものである。
使用された機関車は加藤DA型5トン、加藤KE−5型5トンなどである。








現役時代の写真発見!

タウシュッペ拱橋ヨリ、大雪山彙ノ秀峰ニペソツヲ望ム
タウシュッペ拱橋ヨリ、大雪山彙ノ秀峰ニペソツヲ望ム
針葉樹ノ大原始林ヲ縫ヘル線路
針葉樹ノ大原始林ヲ縫ヘル線路
音更川ノ清冽ニ架セル第三音更川拱橋
音更川ノ清冽ニ架セル第三音更川拱橋
大雪山國立公園入口
大雪山國立公園入口

糠平湖底に沈んだ旧糠平駅
糠平湖底に沈んだ旧糠平駅




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