士幌線
JTB発行『廃線跡懐想』より
そびえる山脈を貫く。それは鉄道技術者だけではなく、平野の少ない日本に住む者にとっての夢だったと思う。素晴らしい平原を持つ十勝平野も、現実は三方を山に囲まれる閉ざされた大地だった。ここに明治38年、狩勝峠を越えて根室本線が開通し、やがて池北線、広尾線と各方向に出口を求めてレールがのびていった。そのなか、一本の鉄道が東大雪の山塊にまっしぐらに向かっていった。士幌線だった。 大正11年の改正鉄道敷設法には、「十勝国上士幌線ヨリ石狩国ルベシベ(上川)に至ル鉄道」とある。標高1450mの大難所、三国峠を越えようと目論んだのである。しかしその夢は時代によって砕かれる。昭和62年、士幌線は消滅した。その跡に多くの美しいアーチ橋を残して。 |
士幌線のあらまし 国鉄士幌線は、帯広駅から上士幌町十勝三股駅まで、延長78.3キロ。大正15年7月10日に帯広─上士幌間38.4キロが開通、その後昭和14年11月18日に上士幌─十勝三股間39.9キロを開業して、全線が開通した。 北海道の鉄道敷設は、明治29年に公布された「北海道鉄道敷設法」によって現在の根室本線」、宗谷本線、函館本線などが建設予定となり、明治から大正時代かけて次々と完成していった。士幌線は当初この敷設計画に入っていなかったが、明治43年から実施された北海道「第一期拓殖計画」の遅れを取りもどすべく大正5年、現石北本線の一部など四線とともに、「上士幌線」(帯広ー上士幌間、37.3キロ)として追加線に組み入れられた。 その当時の河東郡は音更村1村で人口約1万人。木野、音更、中士幌、鹿追地区に開拓者が点在していたが、奥地は未開のままであった。 測量に着手した大正10年の音更、川上両村の戸数は2,546戸であったが、士幌までの開業によって入植者が急速に増え、全線開通時には音更村1,732戸、士幌村(大正15年6月村名改称)1,200戸の合計2,932戸に増加、人口は両村合わせて17,750人となっていた。北十勝の開拓を著しく進めた士幌線はその後、石狩山地を縦断、上士幌と上川を結ぶ鉄道の一部として、昭和9年から十勝三股へ向け延長工事を開始。14年11月8日、37.6キロを新たに開業して、全線76.0キロが完成した。 北部十勝の開拓と、石狩山地南部一帯の森林資源開発を目的とした二度にわたる鉄道の開通で、奥地への入植者がふえ、農業と相まって林業が盛んになった。士幌村の人口は昭和5年11,863人を数え、その半数近くは上士幌地区にあって、翌6年4月、上士幌村を誕生させた。清水谷、糠平、十勝三股と延びた鉄道は、当時音更川の流送に頼っていた原木輸送を貨車輸送にかえ、勢多水銀鉱山を出現させた。また一本の道路もない三股は、樹海を切り開いた2本のレールによって街と結ばれ、、道内屈指の木材生産地として発展してゆく。
昭和27年北海道総合計画の一環として、糠平ダム建設が開始され、31年6月に完成。これにともなって清水谷−幌加間のルートが変更され、旧糠平駅は湖底に沈み新駅が登場した。 |
[ 旧糠平駅 ] |
旧糠平駅は、鋭角の屋根にコンクリートの煙突を二本つき出したモダンな駅舎であった。 夏になると数百羽の岩ツバメが飛来して軒端に巣をつくり、「ツバクロの宿」とも呼ばれる旅情をかもしだしていたが、ダムの完成によって惜しまれながら消えていった。 |
糠平ダムが完成する前の30年に士幌線にディーゼルカーが走り、31年には客貨分離が実施された。糠平湖は新しい観光地として脚光を浴び、乗車客は一層増加したが、国鉄の経営合理化によって35年には木野、萩ヶ丘駅が委託駅となり、10年後には駒場駅など5駅が無人化された。さらに木材需要の低迷などによって三股の造材も縮小され、53年暮れには糠平−十勝三股間が全国初のバス代行輸送となった。三度にわたる貨車暴走という痛ましい事故もあったが、開通以来63年間にわたって地域開発に貢献してきた士幌線は、国鉄の分割、民営化に伴って63年3月22日をもって廃止された。 『北の鉄路−士幌線の63年』より |
必見!昭和18年頃の士幌線のお話 |
士幌線の沿革=開通及び開業 | |
木 野〜士 幌間 | 大正14年12月10日 |
士 幌〜上士幌間 | 大正15年 7月10日 |
上士幌〜清水谷間 | 昭和10年11月26日 |
清水谷〜糠 平間 | 昭和12年 9月26日 |
糠 平〜十勝三股間 | 昭和14年11月18日 |
清水谷〜糠平間の景観 |
仙翠峡 | 現在、元小屋ダムのための水位上昇により、両側の岩壁の高さがなく残念な眺めであるが 往年は岩壁が高く、その岩壁を跨いで15m程の赤く塗られた鉄のアーチ橋が架けられていた、 汽車の窓から下を覗き見ると素晴らしい景観であった。 |
糠平大函 | 柱状節理の岩壁で岩肌に、春はツツジ・夏はシャクナゲ・秋は紅葉と壁画の様であった。 現況は川の流れがないため、潅木の生えるにまかせて其の陰も見る事ができず残念に思う。 関係機関において何とか善処され再度あの景観を再現されるのを希待したい。 又、此上手の部分、全体の1/3程が電源開発の岩崩れによって破壊崩落し、自然環境破壊の標本展示に見えてならない。 |
鱒見の滝 | 現在、鱒見トンネルの位置に巾4m落差3m程の、水量が多く水シブキが綺麗な滝があった。 |
何の変哲もない滝だったが、現今では考えられない逸話があったのです。 当時は千代田堰堤とか砂防ダムなど、魚の俎上を妨げるものがなく、鱒やシャケが此の滝まで上がって来たのです。 その魚を川岸からみることが出来たので「鱒見の滝」と言われ、鱒見トンネルもその名からとったものと思われる。 「鱒見の滝で大漁」当時このあたりには造材や台車積みの人夫等の飯場が存在し、夕食の魚に滝へ総出で漁に出掛け、 滝壷にダイナマイトを投げ込み白い腹を上に浮き上がった鱒やウグイを川下で網をかけて捕獲、 今で言うレクリェションを兼ねた食料調達であったと思われる。 | |
糠平駅 | 駅舎は温泉所在地のせいか、鉄道規制駅舎と変わったモダンな建築様式であったように記憶している。 駅前には音更川が流れ、下手で糠平川と合流しそのあたりに温泉行きの橋が架かっていたいたように思う。 構内には機関車の車庫と給水塔があり、営林署の岐線があった。 建造物は、鉄道官舎と日通事務所と飯場等であった。 |
糠平温泉 | 大正8年に湯元館の初代経営者 島 隆美氏が発見したのが温泉の始まり。 昭和9年頃には15軒の湯治場があったと記憶にあるが、道路も鉄道もない密林をどの様な手段で往来したものか興味のあるところ。 18年頃は糠平駅から4キロ程の馬車道のような砂利道が存在していた。 鉄道も開通した事で結構賑わっていた、数回入浴に行った記憶がある。 |
幌加駅へ | 糠平駅を発車して暫く進むと車窓の視界が明るくなる、密林が開け白樺の小木が散在する草原が続く。 このあたりは高原の湿原地帯であったのか? このあたりから西方にウペペサンケ山が望見出来た。この草原を過ぎると、間も無くタウシュベツ橋に至るが、 車窓からは巨木しか見えず現在の様にニペソツ岳を望むことはできなかった。 士幌線唯一のトンネルを過ぎると幌加駅である。 |
幌加駅 | この駅は上り下り線一本で駅舎と官舎のみで、駅員も2名勤務であった。 乗り降りの客もほとんど無く寂しい状態であった。時々山から親父が慰問に来た話があった。 鉄道の施設には、多額の費用と期間を要する為、開発が何時も先行し鉄道が開通した時点では 不要の長物となる事が多い。白糠線・根北線・然り開発資源の枯渇で必要性を失うのである。 幌加駅も其の典型的な駅であったと思う。 上士幌以北の鉄道は昭和10年から14年にかけてようやく十勝三股に至ったが幌加以南の資源(木材)は 既に音更川の流送で上士幌の貯木場まで輸送されていたのであった(10〜13年頃が最盛期)。 しかし、戦後になって軍優先から解放されて自由経済になり、一般材の輸送が自由になり幌加駅からの木材搬出が 行われ、木工場等も出来、電源開発の機材、洞爺丸台風による倒木材の輸送で多忙を期したが、 昭和45年9月業務解散のため無人駅となり終幕を引くことになった。 |
余談 | 幌加駅の意外な存在意義があったようです。鉄路も山間部に入ってからは平均上り勾配が25/1000mの上り坂のため、 機関車にとっては難所の連続、乗務員は石炭を連続投炭を続けて蒸気圧を保持しなければなりません。 真っ黒な黒煙を吹き上げて驀進する勇姿は、見た目は素晴らしく感動しますが乗務員は大変なのです。 特にトンネル通過の際に黒煙をはきながら突入すると大変な事になり兼ねません。蒸気熱と排煙ガスで危険な事もあるのです。 トンネルの手前あたりで黒煙が薄れるように相当手前で投炭をやめ、残存蒸気で進行を続けながらトンネルを通過し終わる頃には蒸気圧も減り、再び投炭し蒸気圧の上昇にかかる時、幌加駅に到着。 動輪はお休みですから、窯の蒸気はみるみる上昇し次駅へ向かって発車です。 |
幌加温泉 | 昭和3年頃から湯小屋が開かれたのが始まりと言われています。 昭和18年頃は営林署の休養所があると聞いていました。道路も無く現地の様子は知りません。 戦後、昭和26年幌加温泉・48年湯元鹿の谷が開業、現在に至っているようです。 |
十勝三股駅 | 駅名の起源 音更川・中の川・十四の沢の川の合流点なので三股となる。 三股であるが他に同名の駅があったので、十勝を加え十勝三股とした。 当時、駅員は12名・保線員が7名勤務し、構内も3番線と貨物線及び転車台線があった。 又、一番線の延長で200m?程の営林署の木材専岐線が2本敷設されていた。 駅勢圏は未開の密林地帯で、石狩山系の奥沢に向かって木材の切り出しが盛んに行われていた。 管行直括事業で下請けの組が入山しており、出稼ぎ人・人馬共稼ぎ等が組別に入山・飯場を作り集団作業を行っていた。 当時、列車は4往復運転していたが、乗客も各列車30人前後の乗り降りがあった。 伐採した丸太は「バチ橇」で搬出されて来たが、岐線の土場に10m程に丸太で組まれたサンドル上に曳き上げて荷卸しするのだが、直径1mもある長尺丸太が4・5本積んであり、ガッチャを切ると同時に転げ落ちる、 「ドドーン・・・」とスゴイ音がする。300mも離れている駅舎にも地鳴りして聞こえて来たものだ。 又、毎日貨車に積み込みの掛け声(キヤリ)の音頭が林間にコダマして叙情的であった。声の素晴らしい先導者がいた。 当駅はこの木材輸送が最大の使命で、発送していたのです。 今は言えるが、すべてが軍需用材、民需で製紙工場のパルプ材1日16トンのみであった。 貨物係を担当して、行き先表・発送通知書・輸送報告等事務処理の他、岐線での貨車番の照合、 日通作業員の督励等あげたが、本来一番苦労する使用貨車の手配がほとんど無かったことである。 何故か? 当時国内は軍隊が最優先の時代、鉄道輸送も軍需輸送が優先され、各所に輸送指令部を置き、 指示命令が発せられていたのです。十勝・帯広にも7師団が駐屯してた。 帯広駅にも駅長室に輸送指令部を置き、将校・下士官が常駐し駅長に指示指令をしていたのです。 十勝三股からの木材輸送に必要な貨車の手配等、指示通り管内から集め士幌線の列車に連結して三股に空車で届く仕組みであった。 三股駅へは原木の量と送り先の指示・運賃後払い書が届く。 又、月に1・2度、指令官(中尉)が軍刀と杖に皮長靴を履き客車から降立つことがあった。 駅長始め駅員総員が直立敬礼を以って迎えたものであった。現代では漫画的状景でしょう。 |
周辺の状況 | 駅構内の周辺は、赤エゾ松・黒エゾ松・トド松等の密林でまったく見通せる物がなかった。 周りの建物は、鉄道官舎・営林署庁舎・日通事務所及び飯場だけであった。 電灯も無くランプ生活、燃料は薪ストーブ、厳冬期等零下30度のシバレが普通、密林に囲まれていたので常に無風で、 松の高枝に積もった雪が飛ぶのを見て風を知る程度であった。 18年から19年にかけて、東高台に営林署官舎が10棟程建ち、青山木工場と社宅ができる。 住居人が増えてきたので、糠平小学校の三股分校が開設される。 この頃、三股神社が設置され、上士幌から神官を呼んで鎮座祭りが行われていた。 このあたりの開発で樹木を伐採したので視界が開け、オッパイ山が見えるようになった。 青山木工場の火力発電を鉄道も供給を受け、夕暮れから22時まで文明生活が出来るようになる。 |
後書き | 弱年17才18才の2年間の経験を、今思い起こすにはへだだりが感じられる。 だが、この弱年で独立し生活を通した気力、今にして自分ながら感じ入るものがある。 この2年間結構楽しい事も沢山あったが、戦時真っ盛り上司の弟がアッツ島で玉砕という悲しい思い、 我が身も先は同じかと戦慄を覚えた物であった。 20年2月鉄道員も召集されて男子が少なくなり女子職員が多くなり、女子で出来ない仕事もあり、 戦時要員確保という名目で、釧路駅に転勤し外勤(貨車の入換操車)に勤務しました。 終戦間近の7月釧路空襲に遭遇し無事であったが惨憺たる思いをしたものであった。 戦後の食糧難、澱粉粕だんごの味も忘れられない。 |
このあたりで現在に戻り、77歳の老人が語る思いで戯言の締め括りとします。 | |
元国鉄職員 帯広市 n.moriyama |
昔、士幌線に居た どうぶつ たち 元機関士の思い出 |
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元士幌線を乗務した一機関士が体験した昔の思い出ですが、過疎化した沿線ではもう乗車経験された方も少ないでしょうし、廃線になってタウシュベツ川の沈む橋だけが有名になり、殺風景になった元士幌線跡では考えられない動物達との体験談です。 |
ブッポウソウ うぐいす
多くの輓馬が丸太を挽いて土場へ |
線路上を逃げる親子馬 食べられ襟巻きになった狐 雪原から線路内に飛び込んだ野兎 |
鹿 線路横断の熊 剥製になった(梟)ふくろう |
元国鉄機関士 帯広市 t.oozeki
第9糠平トンネルの落盤事故
(友の会・会員の調査です)
第9糠平トンネルの落盤事故で9名の方が亡くなられたと、トンネル入口の説明文にあり、翌年建立された殉職碑が、現在 鉄道資料館横に移設されています。 帯広市図書館で第9糠平トンネル落盤事故の新聞記事を調べてみましたら、事故は昭和30年3月4日(『十勝毎日新聞』は午後4時頃、『北海道新聞』は午後とのみ記述)に発生し、9名が亡くなられたとあります。内2名は殉職碑にある国鉄札幌事務所職員と一致し、残る7名は荒井建設職員で、この方々も殉職碑の人名と一致します。 更に当時の新聞記事をさぐり、士幌線付替工事に関する事故を調べてみましたところ、昭和29年8月21日付『十勝毎日新聞』の記事に、8月19日午後8時40分頃、第2糠平下口墜道の落盤事故で大林組内田工務店土工夫 T.Sさんという人の死亡記事を発見しました。この人は殉職碑の大林組の4人の内の一人でした。 話は少し戻りますが、この第9糠平トンネル落盤事故で亡くなられた荒井建設の7名中3名が朝鮮出身の方々です。糠平ダム西側のダム建設の殉職碑に刻まれた32名の方々は、7割近くが東北・北海道出身者ですが、2名の韓国出身者が記されています。 |
ありし日の士幌線
『北の鉄路・士幌線の63年』より
編集 帯広市・音更町・士幌町・上士幌町
士幌線と動物たち 乗務先の糠平で宿泊し、布団に横たわって寝ようとすると、真っ暗な樹海の彼方から、「プッポー」と鳴く声が寂しげに聞こえるので、ひょっとしたら『仏法僧』と言われる鳥ではないかと、素人判断で語尾の「ソー」が聞こえないかと耳を澄ましたものですが、そう思える節もあるけど判然とせず、結局わからずにいつしか眠ってしまうのが常でしたよ。 最終の気動車列車が、あと数キロで三股に着く地点でした。前方の線路上にピカッと光る小動物の二つの目玉があるんですよ。 そうそう、狐が早朝の暗い時に、糠平、幌加間で機関車に轢かれ、その時には気付かなかったのですが、明るくなったその帰りの列車で、線路内に転がった色と形でそれと分かる死体を発見して、事故?を知ったこともありました。列車から拾うことも出来ず、物不足の時代でしたから、瞬間惜しい気持ちも湧いて通ったものでした。 後日、その日巡回の保線区員の方が拾い、鼻先が痛んだだけだったので、奥さんの襟巻きに加工したとの話を聞きました。 冬になると、兎がよく線路に出て、機関車の前を走って逃げるのですが、除雪された線路内が走りやすいので、横へそれないで、真っ直ぐに懸命に走るんですよ。上り坂で列車のスピードも遅いのですが、徐々に追い詰められて来るので、早く横へ逃げるようにと、シリンダーの下からシュ、シュと蒸気を吐き出して追うのですが、機関車をからかっているのではないかと思う事さえありました。 いよいよ危ないと思った瞬間に、さっと横の雪壁を飛び越え、一目散に雪を蹴るように逃げて助かり、当方も共にほっとしたことが何回かありますよ。 |
貨車暴走三件の記録
士幌線は起点の帯広駅から終点十勝三股駅へ向け、標高42.5メートルから662メートルへとのぼっていく、その勾配は、最も傾斜の強い黒石平−糠平間の1000分の25を最高に、平均1000分の18.5という斜度を有している。 |
30キロを22分で暴走 同日午後4時40分ころ、幌加駅構内の引込み線で丸太を満載した貨車2両をモーターカーで入換え中、カーの制動器が故障して本線に逸走。糠平駅付近でカーは破損、脱離したが、2両の貨車はそのまま暴走した。 清水谷駅から通報を受けた上士幌駅では、村祭りの当日であったが、近くの人びとの協力を得て、三番線に枕木を置き、丸太ヤグラを組むなどして暴走車両強制停止の措置をとった。糠平・清水谷・萩ヶ岡の駅を通過、30余キロを暴走した貨車は、枕木を乗り越え丸太の砦に激突転覆したが、丸太は30メートルほども飛ばされた。 運行中の列車がなく、大きな被害の出なかったことが不幸中の幸いであった。 |
衝突! 死者5、負傷63人 昭和31年7月3日午前7時14分ごろ、上士幌駅構内から逸走してきた木材満載の貨車が、士幌−上士幌間帯広起点33.2キロの地点で、運転中の気動車と衝突。気動車の乗客85名のうち即死者3・重傷者16・軽傷者49人を出す大惨事が発生した。 この日上士幌駅では、午前7時を少し回ったころから貨物列車編成のため、貨車移動車で入換え作業を行っていた。移動車にけん引された丸太満載の長物車を、積込み作業を終えた他の長物車に連結しようとした際、そのショックで制動手配が充分でなかった丸太満載の長物車2両が転動、構内斜度1000分の2.5の下り傾斜に乗り、士幌方面に向けて動き出した。駅員はそれに気付いて追いかけたが、貨車は本線に逸走。1000分の10の下り勾配でスピードを増し、朝もやの中に消えて行った。 士幌駅で貨車逸走の第一報をうけたのは午前7時9分で、帯広発午前6時18分十勝三股行きの気動車、下り711列車(1両)が堤時刻の7時7分に士幌駅を発車してから、2分後のことであった。 一方運転士、車掌、乗客85人を乗せた下り711列車が士幌駅を発車してから3キロ余り運転したとき、突然朝もやをついて野牛のように突進してくる暴走貨車を運転士が発見した。貨車との距離は300メートル。気動車を逆行させる暇がないとみた運転士は急停止して車掌と協力、乗客を下車避難させる措置をとったが、次の瞬間ものすごい音をたてて正面衝突。暴走貨車は気動車の前面にめり込んで、互いに脱線、そのまま200メートルほど引きずられて停止したが、このときの衝撃で貨車に積んでいた丸太が飛散、落下した丸太の下敷きになって死亡者5人、重軽傷者63人を出した。 |
重油を積んで暴走 すなわち3回目の事故は、昭和44年11月28日午後5時ごろ、士幌駅構内で入換え作業中、貨車5両をすでに留置していた貨車7両に連結しようとして失敗、そのショックで7両の貨車は中士幌駅に向けて走り出した。 しかし作業半ばの5時25分ごろ、士幌から中士幌までの8キロに及ぶ下り勾配で加速した逸走貨車は、時速60キロを超すと思われる暴走車両に変身。あたかも手負いになった猪のようにうなりを生じ、全身をゆさぶって枕木を跳散らし、脱線器を壊して留置車両に衝突した。 この衝撃で暴走貨車は全車両が脱線、暴走車の前2両のタンク車と肥料を積んだ有蓋車、ぶつけられた留置貨車12両のうち2両が転ぷく、合計5両の貨車が大破した。 現場では破損したタンク車からボイラー用の重油が飛び散り、さらに流れ出して付近の積雪を真っ黒に染め、肥料の散乱もあって一時は火災の誘発も懸念されたが、二次災害などの大事には至らなかったので、関係者は一様に胸をなでおろした。 |
少年の日の思い出
S・A
話は約40年前の初冬。帯広から北へ進む国鉄(今はJRという)の線路は、糠平温泉から山中に入り十勝三股駅が終点。このマチは木材の集散地らしく木工場や旅館、商店などで賑わいがあった。そのマチから丸太を運搬するトロッコにフトンとバックを積みこんで、寒風に首を縮めながら約1時間。大雪山系から流れ下る清流の側にその飯場(今は作業員宿舎とかいう)があった。ここが冬山造材の最前線。 人間の記憶にもいろいろあるようだ。大きな経験でも「忘却の彼方」へ直行するし、数十年経っても細かい情景が鮮明に残っている。異常な体験もある。飯場にはいろんな人たちがいた。 新聞もラヂオもない、社会から隔絶された所で、酒乱の男も、自衛隊をクビになった男も、みんな黙々と働いていた。他人の事には興味がない。2キロ上流の飯場で起きた傷害致死事件にも関心がない。 |
音更の田園地帯を行く 列車は キハ40型
新雪を踏みわけて 列車は キハ40型
夏の1日5両編成が珍しい 列車は キハ40型
坊主山を背景に走る 列車は キハ40型
中士幌付近 (標高146m) 列車は キハ40型
士幌駅 (帯広より30.1km、標高202m) 列車は キハ40型
北平和駅 (帯広より34.4km、標高238m) 列車は キハ40型
上士幌の豆畑を行く 列車は キハ40型
列車は キハ12型 |
清水谷付近を行く 列車は キハ40型
清水谷駅 (帯広より48.8km、標高376m)
黒石平駅 (帯広より53.6km、標高416m)
電力所前駅
列車は キハ40型
第三音更川橋梁 (帯広より53.8km、標高417m) 機関車は 9600型
下の沢陸梁 (帯広より56.2km) 機関車は 9600型
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糠平発電所 |
第二音更川陸橋 (帯広より56.0km)
機関車は 9600型
第四音更川橋梁 (帯広より56.4km)
機関車は 9600型
機関車は 9600型 | 機関車は 9600型 | |
不二川橋梁 (帯広より59.2km、標高525m) |
9600形式テンダ蒸気機関車 | ||
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この形式は大正時代の代表的な貨物機関車で十分な火床面積を得るため動輪上に火室を置いたのが特長で、このためボイラ中心線は非常に高いが引張力は強大で、大正12年(1923年) D50形式が出現するまで貨物列車用や勾配線用の標準形として毎年製造され、その両数は784両にもなりました。 士幌線で使われた蒸気機関車は、9600型のほか「C56型」「8620型」などがあります。 |
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糠平ダム |
不二川橋梁 列車は キハ40型
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■ 列車の車内放送 | |
<第五トンネルを出ると> 皆さん右側をご覧ください。貯水量15万7千立方メートルを充たす糠平人造湖です。この湖の周囲は33キロ、約8里。満水時の深さは70メートルあります。湖水には毎年ニジマスを放流しており、今では釣愛好者に親しまれております。 |
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糠平駅 (帯広より59.7km、標高531m) |
三の沢橋梁 (帯広より62.3km、標高532m) 機関車は 9600型
機関車は 9600型
機関車は 9600型 | 機関車は 9600型 |
第四音更川橋梁 (帯広より67.3km、標高531m) |
音更トンネル (帯広より70.3km、標高572m) 機関車は 9600型
幌加の白樺林を行く
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ニペソツ岳 |
幌加駅 (帯広より71.3km、標高583m)
機関車は 9600型
機関車は 9600型
第五音更川橋梁 (帯広より71.8km、標高583m) 機関車は 9600型
十三の沢橋梁 (帯広より76.0km、標高634m)
十四の沢橋梁 (帯広より77.7km) 機関車は 9600型
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西クマネシリ岳、ビリベツ岳 |
十勝三股駅 (帯広より78.3km、標高661m)
音更森林鉄道
音更森林鉄道は十勝三股駅に接続して設置された三股貯木場を起点として、音更川左岸沿いに敷設され、岩間温泉付近の21線沢までの8775mの森林鉄道であった。昭和26年に運行を開始、昭和32年にわずか8年で消滅した。 レールは10kgレール、軌間は762oで一般に「軽便鉄道」と呼ばれるものである。 使用された機関車は加藤DA型5トン、加藤KE−5型5トンなどである。 |
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タウシュッペ拱橋ヨリ、大雪山彙ノ秀峰ニペソツヲ望ム |
針葉樹ノ大原始林ヲ縫ヘル線路 |
音更川ノ清冽ニ架セル第三音更川拱橋 |
大雪山國立公園入口 |
糠平湖底に沈んだ旧糠平駅 |